自分育て

#35 私の仕事遍歴


自分育てチャンネルのエルトンです。

さて、いつも自分育てを意識している私ですが、
それを意識する習慣がついた理由の一つに、
ほとんど「自分の好きな事」しか仕事にしてこなかった経緯があります。

自分の好きなこと仕事にすると、
必然的にもっと上手くできるようになりたい!
もっと早くできるようになりたい!と思うものです。
それが人の技を良く観察する事に繋がり、
また、あらゆる情報から何かヒントはないか?と常にアンテナを張っています。

それが癖になり、習慣化された、と言えます。

私、2024年7月現在、55歳と6ヶ月ですが、
1984年春、私は15歳の時に初めてバイトをしました。
ちょうど今から40年前です。

バイトの内容は、某チェーンレストランの皿洗いです。
当時、時給380円で、最初の3ヶ月は見習い期間で、
40円引きの条件。
なので、実際は340円でした。
3時間働いて1020円。これが40年前の高校生バイトのリアルです。

高校から帰ってくると帰宅が17時から18時ごろ。
そうしてバイト先へ出向き、当時は15歳の学生は夜10時までしか働けなかったので、
19時から22時の3時間勤務を週5日こなしても、
1ヶ月で約20000円程度のバイト代でした。

それが夏に急変します。
同じ年の1984年、夏の暑い中、淀川のほとりでバク転など練習していた折、
東映のアクションチームの人に偶然スカウトされたのです。
「まずは練習を見学においで!」と名刺を貰い、その日はそこで別れました。
人懐っこそうな笑顔で、
「是非今度おいで!」と言う30過ぎの男の人を
私は絶対怪しい人だと思っていました。
しかし、どうしても気になります。
ものは試しという事で、翌週練習に伺うことにしました。

当時、新大阪と西中島南方の中間ほどに位置していたマンションの地下駐車場が
練習場というのです。
今では考えられませんが、
地下駐車場でアクションの練習が、
マンションの許可を得てされていたのです。
当時の自由さが随所にありましたが、
この辺りの話は長くなるので、またの機会にいたします。

さて、1984年9月から私は正式にチームに入り、
週2回の練習に参加します。
そして新人ながら、12月末から正月三ヶ日の仕事をいただきました。
場所は京都、太秦の映画村、「中村座」という知る人ぞ知る舞台です。
実は後で分かった事ですが、3ヶ月程度でデビューできるというのは大変幸運だったのです。
何故かというと、スカウトされて1年練習して、デビューできない人も沢山いたからです

初めての仕事は「電撃戦隊チェンジマン」の「ヒドラー兵」と言う、悪者の下っぱです。
そうです。舞台と言っても、
私は着ぐるみを着て、何回も戦ってはやっつけられて、
また蘇って戦いに何度も挑む子供向けのヒーローショーの戦闘員役だったのです。
それでも1日2回のショーで5,000円というギャラをいただきました。

たった計4日ほどの仕事で、
私はそれまで仕事で得た皿洗い1ヶ月16日間のギャラを上回るお金を手にしたのです。
私は「あれっ?」と思いました。
人はお金のために働くより、
自分の長所を活かした方が楽しいし、稼げるんじゃない?
そう強烈に刷り込まれた瞬間でした。

それ以降、私は好きな事、
もしくは自分の資質を最大限に活かせる仕事だけに従事することになります。
そうして、自力でギャラを上げるために、
常にアンテナを張るようにし始めたのです。

高校時代はやりたい事にとにかく集中

高校在学中、土日と春、夏、冬休みはアクションショーのバイト。
場所は枚方パークや今はなき、阪神パークや長岡京のスケート場、
地方会場などの演劇の前座など、泊まりで行脚する仕事もあり、
高校生活は通常の学生生活というより、
ちょっとした子役俳優的で、実際年間50日ほど休んでいました。
(遅刻早退はもっと多かった。)

しかも、3ヶ月でデビューという凄く名誉な抜擢をしていただきながら、
翌年1985年の夏休みは一回も舞台に出ないという恩知らずな行動を取ります。
1985年の夏休みはママチャリで東日本を一周するという計画を高校一年から立てており、それを遂行するためには夏休み期間を全て使わないと到底不可能だったからです。

そして、実際に33日間をかけてママチャリで東日本一周約5,500キロを走りきりました。
帰宅する私を新聞記者が待ち受けていて、
私の銀輪旅は朝日新聞、読売新聞、大阪日日新聞などに写真入りで掲載されたのです。

そんなやりたい放題の高校生活だったので、
当然ながら学業は疎かになり、
到底普通の大学に進学することはできません。

そんな事をしながらも、
私は、高校2年の冬、高校3年は真面目にアクションショーをこなしているうちに、
本気で表現の世界に入りたくなってしまいます。
もう、いきなりプロの世界!でも良かったのですが、
まだ18歳の私は、教師の勧めもあり映画学校に入学するのです。

一度は進学

映画の学校で進学と言えるのかといえば、微妙だと思いますが、
現在では「日本映画大学」と一応大学扱いになっております。

そして当時も誰でも入れるというわけではなく、
一応、筆記試験と面接がありました。
その際、面接で私の心に火を付けた面接官がいました。
今考えると笑ってしまいますが、何と今村昌平監督です。
その大学は今村昌平監督が主宰の学校だったのです。

その今村昌平監督が直々に面接官として真ん中に位置し、
激しい口調で説いてくるのです。
「お前は何のために映画が撮りたいのだ!
それはお前の経験した心を揺さぶられた本当の情熱に基づいたモノでなければ、
本当の映画ではない。映画とは作品であり、ドキュメンタリーなのだ!」と、

ツバキを飛ばしながら18歳の小僧に、
よくもあれだけの情熱をぶちかましてくれたと、
今となっては感謝の気持ちで一杯だ。
何故ならチャラチャラした映画への憧れが吹っ飛んで、
リアルに命をかけた作品作りと捉えることが出来たからだ。
これは生半可では務まらない世界だと肌で感じた瞬間だった。

そうして、無事合格し、入学。
学校には1年間通いましたが、私の勉強態度はとても褒められたものでなく、
当時の担任「池端俊策氏」に退学を勧められ、実際退学しました。
私には通り一辺倒な授業が退屈で堪らなく、
苦痛でしかなかったのです。
もう一つ突っ込んで言うと、私にはお金を払って技術を学ぶということが、
馬鹿馬鹿しく思え、どうにも性に合わなかったのです。
見て覚えるというと、観察眼と隙の無さが重要で常にピリピリとした雰囲気があります。
しかし、それらを授業で習うとなると、
実戦で鍛えられた私にとって、とても周りくどくて、
授業のボリューム感を出すための回り道のように思うことが多々あったのです。

私にとっては実戦投入で稼ぎながら見て学ぶ方が知識や技術の吸収効率が高かったのです。
結局一年で辞めた映画学校で得たのは、
今村昌平氏の映画へかける情熱と、
池端俊策氏の実は間抜けな現実を俯瞰する観察眼でした。

それらを実感した私は当たり前のように
この後、興味あることを仕事にするために邁進する事になります

それ以降ついた仕事

  1. 近畿のツアー会社の添乗員。
  2. テレビ番組制作会社のアシスタントディレクター
  3. 高速道路工事
  4. ちり紙交換
  5. スキー場レストラン調理、および寮の料理長(2シーズン)
  6. アマチュアスポーツカメラマン(バレーやラグビー、サッカー、野球、陸上などの大きな大会)
  7. コマーシャルフォトスタジオ助手
  8. 写真屋さん(現像・引き伸ばし業務)
  9. 競馬カメラマン(競馬ブック・共同通信社・日本中央競馬会)
  10. 旅行ガイドのカメラマンとライター(るるぶ・マップル)
  11. フィッシングライター(スポニチ)
  12. イベント企画、運営(大手百貨店・企業)

ここまでが何処かに属して活動した仕事。

その間、世界一周のバックパック旅行や自転車で日本一周、
カナダ・トロントにワーキングホリデービザを利用して生活するなどをします。
自分の生きていく世界を縮図化するために、
ある程度の見聞を広めたかったので、
正社員になったりもしましたが、長くは勤まりませんでした。

そして、下記が自分でコツを得て、事業としてやってみた仕事です。

  1. 天然石販売業
  2. アクセサリー作家
  3. 文筆業(デジタル書籍含む)
  4. デジタル画像処理(カプコン・バイオハザード・アウトブレイクⅠ・Ⅱ)
  5. 店舗運営・飲食業
  6. ネットショップ
  7. YouTuber

最後のユーチューバーは今から2年ほど前に収益化できて、
わずかですが収入になっているので明記しております。

このように沢山の仕事に従事してきました。
側から見るとフラフラして見えると思いますし、
現在でも他人にお仕事は?と聞かれてもとても一言で言えません。

で、何度か正社員にもなれたので、
そこで腰を落ち着けて働くと言う方法もありました。
実際、どの職場も離れる際にも、
「やめてどうするの?」「自営は大変やで!」と引き止められたりもしました。

しかしながら、当時は花形だった仕事が、
現代となっては風前の灯のような職場もあります。

例えば、

  1. 国家資格を取らせてあげるから社員になってくれと言われた旅行会社
  2. テストは形式だけだから社員にならないかと言われたTV番組制作会社
  3. 開催すれば1日数十万円の売り上げが上がった百貨店のイベント業務
  4. 日本中を飛び回れる競馬カメラマン(紙媒体の激減)
  5. 記事を載せるだけで、時折袖の下を貰えた新聞・雑誌記者。(こちらも紙媒体の激減)

そのどれもがたったの10〜20年程度で、
地に落ちて、将来の見えない状況に陥ってしまったのです。

ここから分かることは、どんな仕事も安定はありません。
今、良いとされている仕事だって同じです。

魚釣りをしているとわかるのですが、
どんな素晴らしいポイントも、
どんな凄いテクニックも
いつかは通用しなくなるのです。
環境も変化し、
魚の知恵も向上し、同じ状態が続くことはないのです。まさに無常です。

そうして私は、結果として考えると、
「自分育て」マインドを維持しながら、
「環境適応」を続けていかなければならないのだと知りました。

私は別にフラフラしていた訳ではなく、
その時代の流れに乗るよう適応してきただけなのです。

そんな訳で、次回は自分育てマインドを予定しております。