昭和45年の千里ニュータウン
昭和45年、大阪万博開催!千里ニュータウン完成!
🎉 1月1日—新年の幕開け、大阪万博へ!
「夜明け」— 新聞一面を飾った万博の未来像
1970年1月1日の新聞には、大阪万博のパビリオン が大きく掲載されていました。
記事のタイトルは 「夜明け」。
世界77カ国が集まり、5000万人の来場者 を見込む一大イベントの幕開けでした。
私はこの年が「万博一色」の1年になると期待していました。
しかし、新聞を振り返ると、意外にもそうではなかったことが分かります。
📬 千里ニュータウンは“万博客”の宿泊地に!
1月1日掲載の4コマ漫画 では、こんなシーンが描かれています。
🏠 千里ニュータウンの住人の家に届いた大量の年賀状。
✉️ 内容はすべて「万博の時は家に泊めてくれ!」という宿泊依頼!
😡 主人公はそれに怒り、困惑…。
千里ニュータウンの住民にとって、万博は「おもてなしの負担」 でもありました。
実際、多い日には 15人以上の宿泊者 を受け入れた家庭もあったそうです。
🏕️ 千里北公園に「キャンプ村」開設!
万博開催に伴い、全国から観光客が訪れることが予想されました。
そこで、千里北公園内に「キャンプ村」を設置。
これは、野宿者の増加を防ぐための対策 でもありました。
つまり、万博は「歓迎ムード一色」ではなく、
実際には 宿泊施設・治安・生活環境への負担 も伴うイベントだったのです。
💉 2月20日—千里ニュータウン、感染症対策に追われる
「万博=未来のショーケース」と思われがちですが、
実際には、開催に向けた 感染症対策 も重要な課題でした。
2月20日、千里ニュータウンでは コレラなどのワクチン接種が一斉に実施。
特に アフリカや東南アジアからの来場者が増える ため、
地域住民の間では 感染症への不安 も広がっていました。
✅ 小さな子どもや高齢者がいる家庭では、ワクチン接種を心待ちにしていた。
✅ 「未来都市」=理想だけでなく、リスク管理も必須だった。
🚆 2月24日—「北大阪急行」開通!
2月24日、ついに北大阪急行が開通!
江坂までしかなかった地下鉄が延伸され、
千里ニュータウンが都心と直結 しました。
梅田まで23分、運賃110円。
新聞では 「これで万博の交通網は完成、安心!」 と報じられました。
当初は「3番手扱い」だった北大阪急行
・ 万博輸送のメインは 阪急・北千里線。
・ 2番手は 国鉄からのバス路線。
・ 北大阪急行は「採算が合わない」とされ、大阪市は協力を撤退。
・ 大阪ガス・阪急・大阪府が協力し、なんとか開通。
🚇 当時は「赤字必至」と思われていたが、ふたを開けると…
👉 ダントツの人気路線に!
✅ 「新大阪・梅田から直結」= 乗客の利便性が圧倒的だった!
✅ 予想以上の需要により、万博後も 千里ニュータウンの“足”として定着!
これは、当時の政治家や都市計画のミスリードが浮かび上がる話ですね。
「なぜ当時の行政は、北大阪急行の成功を見抜けなかったのか?」
という視点で考えると、現代の交通計画とも通じる教訓になりそうです。
3月11日:「千里中央地区センター」ついにオープン!
千里ニュータウンの中心が誕生した日
ついに、千里ニュータウンの中核となる 「千里中央地区センター」 がオープンしました。
この日は、「未来社会へのスタート」 として、大阪府知事や豊中市長も出席する大規模な式典が開催。
当時の千里中央は、現在の「千中パル」や南北に広がるショッピングエリアとは異なり、
東西の 「阪急百貨店」 と 「ピーコック」 がメインの商業施設でした。
✅ 「未来都市の象徴」としての千里中央
・ 当時の新聞では 「未来社会へのスタート」 というキャッチフレーズが使われた。
・ まさに 「未来都市・千里ニュータウンの中心が完成した日」 と言える出来事だった。
🏡 万博後の千里ニュータウンのあり方が囁かれ始める
千里中央のオープンとともに、「万博後のニュータウンの未来」 についての議論が新聞に掲載されました。
✅ 吹田市から豊中市へ—千里ニュータウンの主役交代?
・ 2年前までは 千里ニュータウンの中心は吹田市だった。
・ しかし、この頃から ニュータウン構想の主導権が豊中市へ移行。
・ 吹田市は「万博後、大阪市と合併するのではないか?」という話もあった。
・ 吹田市の立場が揺らぐ中、豊中市が千里の未来を語り始めていた。
千里ニュータウンが“成功モデル”となるかどうかは、
万博が終わった後の都市運営にかかっているという認識があったことが分かります。
🇺🇸 アメリカ上院議会が「千里ニュータウンの記録を残す」と
千里ニュータウンは、日本国内だけでなく、海外からも注目を集めていました。
✅ 「北大阪の副都心」としての期待
・ 伊丹(大阪国際)空港が近く、新幹線へのアクセスも良好。
・ 高速道路が通り、交通の利便性が抜群。
・ こうした 「完璧な都市計画」 は、世界でも類を見ないものだった。
✅ アメリカ上院議会が「千里ニュータウンの記録を残すべき」と評価
・ 千里ニュータウンの歴史を記録してきた「千里タイムズ」 が、
・ アメリカの上院議会で「残しておきたい記録」として取り上げられる。
つまり、千里ニュータウンは、単なる日本のニュータウンではなく、
「戦後復興の象徴」「未来都市の実験場」として世界的にも注目されたプロジェクトだった。
🔷 千里ニュータウン=「大阪万博のもう一つのパビリオン」
✅ 千里ニュータウンと万博は、同時に計画されたプロジェクトだった。
✅ 「未来都市」の実現という点で、千里は“もう一つのパビリオン”だった。
✅ 1970年、大阪万博の開催とともに千里中央が完成し、「未来都市、完成す」と報じる
この流れの中で、千里中央のショッピングセンター名を公募。
その結果、2月22日の新聞で発表されたのが 「千里サンタウン」 という名称でした。
サンは太陽。つまり「太陽の塔」と連動して命名。
この名称はのちに変更されますが、万博と一体化した開発だったことが窺えます。
📖 昭和45年3月15日—ついに大阪万博開幕!しかし…?
昭和45年3月15日、「日本万国博覧会(大阪万博)」 がついに開幕!
新聞には、「千里の地で全世界の注目が一斉に集まる」 という見出しが躍りました。
✅ 万博は1851年のロンドンから始まり、世界各国で開催されてきた。
✅ そして、今回の大阪万博は“アジア初”の万国博覧会!
✅ 千里ニュータウンの開発とともに進められた、この一大イベントがついに実現!
千里ニュータウンが開発されていなければ、万博の開催地は別の場所になっていた可能性もあります。
それほど、この2つのプロジェクトは密接に関係していました。
📌 予想外の展開—「千里サンタウン」のほうが新聞で大きく扱われていた!?
万博が開幕したにもかかわらず、新聞では 「千里サンタウン」の扱いのほうが大きい!
これは意外な展開ですが、その理由は明確です。
✅ 千里サンタウンは、“実現した未来” だった
・ 日本初の 地域冷暖房システム(大阪ガスの新技術) がすでに導入され、実際に稼働中!
・ 千里阪急のトイレが、豪華ホテル並みに美しく、訪れた人々が驚いていた。
・ つまり、「未来の理想像」ではなく、「もうここにある未来」 だった。
この違いが、新聞の扱いに影響を与えました。
✅ 「万博は未来の理想、千里サンタウンは実際の未来」を提示。
だからこそ、新聞では 「未来予想の展示」よりも、「すでに使える未来都市」のほうが注目を集めた。
🎡 万博初日—まさかの来場者数が予想を大きく下回る!
ついに迎えた大阪万博開幕日。
万博運営側は、「初日は53万人の来場を見込んでいた。」
しかし…
実際には27万人と大きく下回る結果に!
さらに、2日目の来場者は16万人に減少…。
この予想外の展開に、新聞には 「片透かしを食らった警備人」 という記事が掲載。
膨大な人混みに備えていた警備員たちも、思ったほどの混雑がなく、拍子抜けしてしまったようです。
🏬 一方で…「千里サンタウンは連日大盛況!」
万博が期待外れのスタートを切る中、新聞には意外な記事が。
「千里サンタウンは連日大盛況!」
✅ 万博よりも、地元の商業施設のほうが盛り上がっていた!?
✅ 万博来場者は思ったほど伸びなかったが、千里のショッピングエリアは大混雑!
✅ 未来技術の展示よりも、「実際に使える未来都市」に人が集まっていた?
これは、現代の私たちからすると意外な展開ですね。
万博は 「未来都市のショーケース」 でしたが、
実際に人々が利用していたのは、千里ニュータウンという 「リアルな未来都市」 だったのです。
万博終了後の千里中央—「千里セルシー計画」発表!
✅ 「仮設駅だった千里中央、万博後に本格化」
・ 万博開催期間中、千里中央駅は仮設状態で中国自動車道沿いに設置。
・ 万博終了後、現在の千里中央駅に移転されることが決定。
✅ 「娯楽と教養の融合—千里セルシー誕生へ!」
・ 万博後、千里中央には 日本初の近代的アミューズメントセンター を作る計画が発表。
・ これが後の 「千里セルシー」 となる。
・ 当時の新聞には 千里セルシーの計画図が大きく掲載され、期待の高さが伺える。
🔹 ポイント:万博は一時的な未来都市だが、千里は“定住のための未来都市”だった!
・ 万博会場は半年で撤去されるが、千里ニュータウンは長く住み続ける場所。
・ そのため、「万博後も持続する未来都市としての機能」 が求められていた。
・ 千里セルシーは、「未来都市に必要な娯楽と文化の拠点」 となる計画だった。
📝「万博に行くなら計画的に!」— 92のパビリオンを回るのは不可能!
開幕当日の新聞には、「来場者は計画的に行動しましょう!」 という注意喚起の記事が掲載。
なぜなら、万博会場には…
✅ 外国の展示館が60館、国内の展示館が32館、計92ものパビリオン!
✅ すべてを1日で回るのは絶対に不可能!
✅ 「どこを回るか、事前にしっかり計画を立てるべし!」 とアドバイス。
しかし、この記事を読んで驚いたのが…
「パビリオンの紹介文が小さすぎて、正直、何があるのか分からない!」 という点です。
現代なら、大きな写真や見やすいマップが掲載されるところですが、当時の新聞は情報が詰め込まれすぎて、むしろ 「読みにくい」 状態だったのです。
🎡 万博開幕1ヶ月—来場者900万人突破!
✅ 「昭和45年4月15日、万博開幕からちょうど1ヶ月」
・ 「新聞には 『入場者900万人弱、予定より十数万人少ないが順調!』 と報じられる。」
・ 「開幕直後は来場者数が予想を下回ったが、ここへ来て “成功ムード” が高まってきた。」
しかし…
ここで気になるのが、「駐車場の利用率3割しかない」 という事実。
普通なら「駐車場がガラガラ=失敗」と思われそうですが…
✅ 「駐車場3割=成功!?」— 開催側の本音とは?
・ 「実は運営側は、『自動車で来られるのは迷惑』 と思っていた。」
・ 「そのため、駐車場のキャパシティを意図的に少なくし、公共交通機関での来場を促していた。」
・ 「新聞でも、駐車場の空きがあることを**“成功”**として報じていた。」
✅ 「なぜ自動車来場は迷惑だったのか?」
・ 「当時の大阪の交通事情では、万博会場に大量の自動車が押し寄せると渋滞が発生。」
・ 「それを避けるため、駐車場のキャパを抑え、鉄道やバスでのアクセスを推奨していた。」
🚗 つまり、駐車場の利用率が低い=運営側の狙い通り=成功!
これは、万博運営の「裏側」を見るうえで面白い視点ですね。
🚇 万博2ヶ月目—「北大阪急行 vs 阪急電鉄」の交通戦争!
✅ 「万博開催から2ヶ月、北大阪急行がダントツ人気に!」
・ 「開業当初は 3番手扱いだった北大阪急行。」
・ 「しかし、新大阪・梅田からの直通アクセスが便利すぎて、一気に人気路線に!」
・ 「新聞でも 『北大阪急行が便利で順調!』 と報じられる。」
✅ 「阪急が対抗!バス増便・新路線開設で“交通戦争”勃発!」
・ 「これに対抗したのが 阪急電鉄。」
・ 「バスの増便、新路線開設、割引運賃の導入… さまざまな対抗策を打ち出す。」
・ 「まさに、万博をめぐる “交通戦争” が巻き起こっていた!」
🎤 「当初は3番手扱いだった北大阪急行が、ふたを開ければダントツの人気。なぜ?」
👉 これは、当時の行政や鉄道会社の見込み違いを示す興味深いポイントですね!
「甘い太陽の塔」— まさかの“食べられる未来”が登場!
✅ 千里阪急の地下に、高さ3メートルの「飴でできた太陽の塔」 が登場!
✅ 「甘い太陽の塔」として話題になり、観客の注目を集めた。
✅ 「太陽の塔を食べることができる」 という発想がユニークで、多くの人が訪れた。
🔹 ポイント:未来都市とお菓子文化の融合?
・ 太陽の塔は万博のシンボル。
・ それを飴で再現することで、未来都市の象徴を“より親しみやすい形”で楽しめた。
・ 未来の技術だけでなく、「遊び心」 も万博の魅力の一つだった。
🎤 「辺見マリが熱演!やめてーに大拍手!」
✅ 千里半球でライブパフォーマンス!
✅ 辺見マリが、当時の大ヒット曲 「やめてー!」 を熱唱。
✅ 観客は大盛り上がり、サイン会も開催され、千里中央は熱気に包まれた。
🔹 ポイント:「万博=未来技術」だけじゃない!
・ 当時の人気歌手が続々と出演し、会場を盛り上げた。
・ 「万博は未来のショーケース」だけでなく、文化・音楽・エンタメの祭典でもあった!
👑 「ミスユニバース万博大会」— 世界の美女が千里に集結!
✅ ミスユニバース大会の前哨戦として「万博大会」が開催。
✅ 開会式は万博会場で、お披露目は水着で南千里駅前を大行進!
✅ お父さんたちは大興奮… しかし、当日はまさかの雨。
結果…
・ 6月の雨はまだ寒く、水着行進は中止に。
・ 代わりに車に乗って、窓から手を振るだけのパレードに…。
・ お父さんたち、しょんぼり。
🔹 ポイント:万博と「美の祭典」
・ 世界の美女が万博会場に集まることで、国際的な注目度もアップ!
・ しかし、天候には勝てず… という“悲喜こもごも”もまた万博の一面だった。
⚠️ しかし、万博の裏では「汚職事件」が発覚…!
万博の華やかな話題の裏では、政治家の汚職事件が発覚!
✅ 「昭和45年6月、大阪府議が有罪判決を受ける。」
✅ 「罰金刑、もしくは懲戒処分に。」
✅ 「万博や千里ニュータウンの開発には莫大な予算が投入され、それに群がる利権があった。」
🔹 ポイント:「未来都市」の裏にあった汚職の影
・ 万博は世界の注目を浴びる大イベント。
・ その裏では、多額の税金が動き、政治家がそれを利用して私腹を肥やしていた。
・ 未来を作るはずの都市開発が、汚職の温床にもなっていた。
🏗️ 佐竹台の“使われなかったサブセンター”、ついに取り壊し!
✅ 「千里ニュータウンの都市計画の一環として建設された“サブセンター”」
✅ 「しかし、一度も使われることなく、4年間放置。」
✅ 「ついに、取り壊しが決定。」
🔹 ポイント:「千里ニュータウンの発展の裏にあった“計画倒れ”」
・ 「未来の都市」として計画された千里ニュータウン。
・ しかし、そのすべてが成功したわけではなく、放置された建物もあった。
・ 計画倒れの建築物が生まれたことで、都市計画の難しさが浮き彫りに。
昭和45年:「万博フィーバーの裏で、モラルの乱れが深刻化」
万博の開催で大盛り上がりの昭和45年ですが、千里ニュータウン周辺ではモラルの低下が問題視されていた という記事が新聞に掲載されています。
✅ 「憩いの園、荒らされ放題!」
・ 千里北公園や南公園などの緑地が、まるで「ゴルフ場のフェアウェイ」のように踏み荒らされている。
・ 実際に、公園内でゴルフをする人々の写真が掲載され、手にはしっかりゴルフクラブ…。
・ さらに、自転車や自動車が 芝生の上まで乗り入れる という問題も発生。
✅ 「恥のかき捨て! 外人村のハレンチパーティー」
・ 万博のために来日した外国人たちが、深夜に ハレンチパーティー を繰り広げる。
・ 予想はされていたものの、現実は 「マリワナ吸引で大盛り上がり」 という衝撃の内容。
・ 酔った外国人が オートバイで千里の道を暴走! 毎晩のように繰り返されるトラブル。
✅ 「千里サンタウンはまるでバブルフィーバー!」
・ 千里サンタウンでは、夜店や豪語大会が連日開催され、大盛況。
・ まるで 「日本初のバブル景気がここで起こっていた」 かのような騒ぎだった。
・ 「正義だとは思うが…」 という新聞の論調からも、熱狂と混乱が入り混じった状況だったことが伺える。
昭和45年9月6日:「さようなら万博、あと1週間」— しかし、中身は薄かった…
✅ 1. 「万博閉幕1週間前、しかし報道の中心は…?」
・ 「昭和45年9月6日、新聞には 『さようなら万博』 という記事が掲載されました。」
・ 「しかし、それまでの報道を振り返ると、意外にも 万博の内容についての詳しい記事はほとんどなかった んです。」
・ 「新聞には、観客の死亡事故、大けが、トラブルの報道ばかりが目立っていた ことが分かります。」
✅ 2. 「行くだけに意味がある万博!?」
・ 「そして驚くべきことに、新聞には 『入場することに意味がある』 という論調の記事が。」
・ 「パビリオンを見るために 3〜4時間待って、鑑賞時間はわずか40秒!」
・ 「『もう内容なんてあってないようなものだった』とすら言われていました。」
・ 「つまり、万博は “未来技術をじっくり見るイベント” ではなく、“とにかく行くことがステータス” になっていた んですね。」
2025年万博との違い:「日本全体の祭典1970年万博」
1970年の万博は、ただの展示会ではなく、「日本の威信をかけた国家プロジェクト」 でした。
そのため、政府は 「とにかく人を集める」 ことを最優先に考えていたのです。
その一環として、
「全国の小・中学校の修学旅行を万博に誘導し、入場者数を底上げする」 という政策が取られていました。
✅ 「学校行事としての万博」— 修学旅行の定番に!
・ 全国の小・中学校の修学旅行先として、万博への訪問が推奨された。
・ 「未来の学びの場」として、教育的な意義を持たせる建前だったが…
・ 実際は、「入場者数を確保するための戦略」でもあった。
✅ 「政府主導の動員」— 数字の成功を演出?
・ 修学旅行生が大量に訪れたことで、「万博は大盛況」という印象を作ることができた。
・ しかし、3〜4時間並んで、わずか40秒の展示を見る…という状況に対して、「子どもたちは何を学べたのか?」という疑問も残る。
1970年、日本は世界に向けて 「未来都市のショーケース」 を開いた。
それが 「日本万国博覧会」 である。
未来技術の祭典として語られることが多いこの万博だが、
実際に新聞を振り返ると、そこには 「ただの展示会ではない」 もう一つの意味が込められていたことが見えてくる。
🌏 1970万博は「未来技術の祭典」ではない
この万博は、単なる未来の展示会ではなかった。
「日本が戦後を乗り越え、経済的にも技術的にも世界と肩を並べた」ことを示す舞台 だったのだ。
「千里ニュータウンと万博は戦後復興の象徴」
✅ ニュータウン構想と万博は、戦後の日本の名誉挽回のための一大プロジェクトだった
・ 「第2次世界大戦後、日本は高度経済成長に突入しました。」
・ 「戦後10年経った頃、日本は “未来都市” を作るニュータウン構想を打ち出しました。」
・ 「そして、もう一つの大きな目標がありました。それが… 『バンコク博覧会(大阪万博)』の開催。」
・ 「この 2つのプロジェクトが合体して生まれたのが、千里ニュータウンと大阪万博だった のです。」
✅ 「万博=未来の技術の祭典」ではなく、「日本の名誉挽回と祝祭」だった!
・ 「第二次世界大戦で、日本は大きなダメージを受けました。」
・ 「万博は、そんな日本が世界に向けて 『こんなに発展したんだぞ!』 ということを示す“名誉挽回”の場でもあった。」
・ 「そして、万博は 高度経済成長を祝う“お祭り” でもあった。」
・ 「だからこそ、新聞の論調も 『とにかく行くことが重要』『未来技術の展示内容よりも、人が集まることが成功』 というものになっていたのかもしれません。」
「日本万国博覧会」という表記の意味
通常、万博は 開催都市の名前 を冠して呼ばれることが一般的です。
✅ 1851年 ロンドン万博
✅ 1889年 パリ万博
✅ 1967年 モントリオール万博
しかし、1970年の万博は 「日本万国博覧会」 という名称で報じられていた。
本来ならば「大阪万博」とするのが正しいはずなのに、
なぜ「日本万博」と書かれていたのか?
これは 「大阪だけのイベントではなく、日本全体で成功させるべきもの」 という意識の表れだったのでしょう。
✅ 敗戦国としての日本 → “日本全体で世界に認められる必要があった”
・ 戦後、日本はGHQの占領を受け、国際社会での立場も制限されていた。
・ 1964年の東京オリンピックを経て、ようやく「敗戦国」から「経済成長する国」へと変わりつつあった。
・ そんな中、万博を 「大阪のもの」ではなく「日本全体のもの」として成功させたかった という意識があった。
✅ 「日本はもう世界と対等なんだ」と示したかった?
・ もともと万博は欧米が主導してきたイベント。
・ 欧米ルールに従うのではなく、「日本独自のやり方」で開催するという意志表示だった?
・ 「ロンドン万博」「パリ万博」… いや、これは「日本万博」なんだ! という、日本独自のプライドがそこにあったと感じる。
✅ 「戦後は終わっていない」— だからこそ“日本”を前面に出した
・ 欧米諸国が「都市名」を冠するのに対し、日本だけが「国名」を使う。
・ それは 「まだ戦争は終わっていない、日本はまだ抵抗している」 という無意識の表れだったのではないか?
・ 日本が「世界に受け入れられる」だけではなく、「自分たちの存在を主張したい」という想いがそこにあったのでは?
これは 単なるネーミングの違いではなく、日本がどのように“戦後の国際社会”と向き合っていたかを示すサイン だったと言えます。
🎯 ここが面白い!
✅ 「なぜ日本だけが“都市名”を使わなかったのか?」 → その背景に“戦後の日本の国際的な立場”が関係している!
✅ 「戦後は終わっていない、まだ抵抗している」 → 万博が“日本のプライドを示す場”だったという新しい視点!
✅ 「欧米のルールに従わない日本」 → 万博という国際イベントを通じて、日本の独自性を押し出していた!
これは 「万博をどう見るか?」という根本的な視点を変える、新しい考察 ですね!
「101歳、井川さん死去」
昭和45年10月、万博が終幕してわずか1ヶ月後。
千里ニュータウンの最年長の住人であり、地域の象徴だった101歳の井川さんが亡くなられた。
新聞でも大きく取り上げられ、多くの人がその生涯を偲んだ。
🌿 井川さんー 千里ニュータウン最高齢であり老後の平和の象徴
井川さんは 瀬戸内の小さな島で生まれ、神職に就いた元神主。
晩年、身寄りがなくなったことをきっかけに、2年前に長男の住む千里ニュータウンへ移住。
その頃から、千里ニュータウン最高齢の住人として、地域イベントで引っ張りだことなった。
✅ 千里ニュータウン初の老人施設の地鎮祭に参加
✅ 第一回子どもフェスティバルにも登場し、子どもたちと交流
✅ 町の発展を見守る“生き証人”として、地域の人々に愛された
千里ニュータウンの成長とともに、その存在はまるで「町の守り神」のようだった。
🎡 万博が終わり、使命を果たしたように旅立つ
万博の開催中も、地域のお祭りや催しに積極的に参加していた井川さん。
そのため、「万博とともに生きた101年」と言っても過言ではない。
そして、万博終了のわずか1ヶ月後に亡くなられたことに、誰もが思わず**「しっかり勤め上げられた」という感慨を抱いた**。
まるで、「この未来都市の一大イベントが終わるのを見届けてから旅立つ」ことを、心に決めていたかのように。
そのニュースを知った人々の間には、
「ありがとう」という感謝の気持ちと、「もう少し長生きしてほしかった」という残念な想いが交錯した。
1970年万博の「熱気」を語れる人は、もうほとんどいない
1970年、日本が戦後復興の象徴として開催した万博。
もしこの万博を 「戦後の日本が立ち上がったお祭り」 だったと考えるなら、
一番胸を熱くしたのは、戦後を20歳で迎えた人々を中心として、それ以上の世代のはずです。
彼らは、戦後の混乱を生き抜き、高度経済成長とともに働き、日本の成長を肌で感じた世代 です。
そして、1970年の万博を 「日本の復興を祝う場」として、最も強い想いで迎えた のではないでしょうか。
この終戦二十歳の世代が1970年に45歳だったとすると、
2025年の今、彼らは 100歳 を迎えています。
つまり、あの復興の熱気を「体感として語れる人」は、もうほとんどいないのです。
できれば村山富市元総理大臣に聞いてみたいなと思いました。
🤔 2025年の大阪万博を、1970年と比較することに意味はあるのか?
よく見かけるのが、「1970年万博と2025年万博を比較する」という議論。
「1970年の熱狂はどこへ?」
「今回は昔ほど盛り上がらないのでは?」
しかし、果たしてその比較は本当に意味があるのでしょうか?
🌍 そもそも、時代が違う。
・ 1970年は、戦後から立ち上がり、経済成長を遂げた日本 の象徴的イベントだった。
・ 2025年は、成熟した社会の中で、未来を模索するイベント である。
・ 「復興の証」としての1970年と、「次の社会の在り方」を示す2025年を比べるのは、根本的に目的が異なる。
📖 1970年の万博を語れる人がほとんどいない。
・ 100歳以上の方々 でなければ、あの時の熱気を「体感」として語ることは難しい。
・ それならば、現代の私たちは、想像で語るよりも 「2025年の万博をどう楽しむか?」 に目を向けるべきではないか。
まとめ:「1970年万博と比較するのではなく、昭和的イベントを楽しもう」
🎡 1970年の万博を一番熱く迎えたのは、今や100歳を超えた世代。
🎭 当時の熱気を体感として語れる人は、もうほとんどいない。
📖 だからこそ、「あの時のように盛り上がるか?」という議論に意味はないのでは?
🌍 2025年万博は、1970年と比べるのではなく、今の時代のものとして楽しむべき。
「海外からパビリオンを建設してくれる」 という事実を、もっと素直に面白がってもいいのではないでしょうか。
「比べる」のではなく、「味わう」。
2025年の万博には、そんな楽しみ方があるのではないかと思います。
