自分育て

#6 幸せについて

「幸せからの脱却:相対性理論と幸福のパイ」

幸福とは何か?
この問いに対する答えは、当然人それぞれ異なるようです。
年齢によっても、思想によっても、
様々な立場によっても違うでしょう。

私たち一人ひとりが感じる「幸せ」の価値は、
例えばタイバーツや米ドル、イギリスポンド、ヨーロッパユーロの異なるレートのような
違いがあるのでしょう。

にも関わらず多くの人々は、
自分と他人の幸福基準が同じように錯覚し、
競い合う事で「幸せ」を実感しているようでなりません。

ここで思いつくのが、「幸せの相対性理論」と「幸福のパイ」の概念です。
幸せの相対性理論によれば、
私たちの幸福感は他者との関係性の中で相対的に形成されます。
たとえば、SNSで他人の「幸せな瞬間」を見ることにより、
自分の現状と比較し、幸福感が相対的に減少する可能性があります。
つまり幸せはシーソーのような関係だというのです。
幸せはシーソーなのでしょうか?

一方で、「幸福のパイ」の概念は、
幸福が一定の量に限られているという考え方です。
つまり「幸せ」は椅子取りゲームのようなもので、
「誰かが座ると誰かが溢れる。」という概念です。
誰かが幸せになると、誰かが不幸になる。
本当にそうでしょうか?

幸福は一緒に乗って回るメリーゴーランドのように共有され、
更に増幅される可能性はないのでしょうか?


「見せる幸せ」から「感じる幸せ」へ

幸せも捉え方の違いで随分変わってくるように思います。
「見せる幸せ」・・・他人が必要
「感じる幸せ」・・・他人は不必要
誰かがいないと成立しない幸せにケジメをつけないと、
お金と同じで「十分というリミット」がないのではないかしら。

見栄を張ってブランド品で身を包むのと同じく、
「幸せ」を纏って他人から羨望されたいという、
他人任せの「幸せ」という幻を追い続ける事の何と馬鹿馬鹿しいことか。
これではどこまでいっても充足などあり得ないだろう。
そうか!「幸せ」など誰かが作った幻想で、
元々存在しない概念では?と思ってしまうのです。

「幸せ」ではなく「欲望」と捉えた方が楽な感じがします。
「欲望」は枯渇と充足の繰り返し。
月の満ち欠け、潮の干満と同じ。
よせてはかえす波のようなもの。

過度な幸せ発信は食物連鎖のメタファー:幸せ依存症

SNSなどに見る「幸せの見せびらかし」は、
実際には資本主義の罠にハマった食物連鎖の一部と見なすことができます。
多くの人々が、社会的な地位や物質的な豊かさを通じて、
他人に自分の幸せをアピールしようとしますが、
これは実際には一種の社会的な競争であり、他者との比較に基づくものです。

この現象は、人間社会における食物連鎖のメタファーに似ています。
食物連鎖では、生物は他の生物を利用して生き延びることが求められますが、
社会的な文脈では、人々は他者の評価や比較を通じて、
自己の地位や幸福を確立しようとします。
これは、他者の視線や評価を重視し、
外部からの承認を得ることに焦点を当てた生き方です。

真の幸せは外部からの評価や他人との比較から生まれるものではありません。
幸せは、自分自身の内面から感じるものであり、
他人へのアピールを目的としたものではないのです。
自己の内面に対する真実性と自己受容、
そして日々の小さな喜びや感謝の瞬間に焦点を当てることで、
ささやかな幸福感を見出すことが可能になります。

資本主義の罠

幸せは持続的なものではなく、
日々の生活の中での瞬間的な経験に存在する事がわかりました。
では、何故私たちは、
幸せがモノや他人との比較で感じられるという幻想に惑わされるのでしょうか?

それは単純に私たちが広告などで洗脳されているからに過ぎません。
本当に必要かではなく、
必要な気にさせられるのです。
結論的に言えば、食物連鎖の上位のものに食い物にされている、
もしくは資本主義の罠にズッポリとハマっているとも言えるのです。

社会的な期待との競争ではなく、自分自身との和解が必要

このように現代社会はしばしば、華やかな結婚式や高級車、
ブランド品などを「幸せ」の象徴として提示します。
しかし、これらは社会的な期待に基づいたものであり、
真の幸せを見失う原因となり得ます。
というよりも、「幸せ」という概念そのものが、
幻想であり、「人は幸せに生きる権利がある。」という考え自体が洗脳だと思うのだ。
幸せなどというあるはずの無いものを肯定するからこそ、
人々はそれをどう感じたら良いのか分からなくて、
とりあえず高級品を買うことや他人に見栄を張るという自傷行為を繰り返す。
こう考えればなるほどと思える。

従って、私はありのままで良いという、
自分自身との和解や自己受容がスタートなのだろう。

日々の喜びは自分自身で定義するもの

幸せは幻想と言ったが、
もし、幸せを脳科学的に定義するとすれば、
脳内物質ドーパミンが出るということらしい。
脳科学者は幸せは単に「人を気持ちよくする脳内物質が出ること。」という、
とてもシンプルな結論を出しています。

その結論からすると、
単に「気持ちが良い」=「幸せ」という事らしく、
時代を超越した幸せは「食事とセックス」にたどり着くというのだ。
何と単純なことか。

そして、一度得た大きな快感や満足感は、
その後持続することはないのである。
「幸せという概念」は単なる幻想なのだと思えば、とても気が軽くなる。