自分育て

#12 最低限の付き合い

人間関係の整理

人間関係は重要な人生の要素であるのは間違いない。
単細胞生物が二つの重要な選択器官を持っていて、
その一つが食べ物に対する反応器官。
これは現代の人間に置き換えると「お金」に対する反応。

もう一つは別の生物と会った時に「敵か味方か」を判断する反応器官。
原始時代は肉食動物の危険があったし、
同じ人間でも違う部族の場合は平気で命のやり取りに発展していた。
しかし、現代では極端な命のやり取りはないが、
敵か味方か会話などで判断し、
目まぐるしく変化する人間関係がこれに当たるでしょう。

そう考えると、人間関係というのは、
原始的に重要な要素であり、
これが原因で死を連想して鬱になったりするのは当然と言えます。

しかし、現代は人間関係を重要視するあまり、
自ら苦痛を広げてしまっているのではないか?

何故なら100年前のように、
村八分となれば生きていけない程の生活様式ではないからです。

現代の人間関係は深入りせずに、
表面的に穏便に済ませるのが精神的にも健康的にも良好を保つコツではないか?と思うのです。

誰かに影響を与える言動をすれば、
誰かを傷つけるかもしれない。
または共感を得たくなる。
それが実名であれば、
そこにトラブルの火種が出来る。
時にはSNSで袋叩きに合う。
実名で行動することは、もはやリスク以外の何物でもなく、
これからは仮名やペンネームがのデフォルト戦略となりそうだ。

そして実名で行動しなければならないリアル社会では、
自分からは極力発信せず、
誰かの意見に対しては適度に相槌を打っておくというのが最善のように思える。

分かって貰おうとしない

人間関係を「生存確認」と「敵か味方の確認」と考えれば、
どんな会話もそんなに意味はない。
言葉を介したスキンシップのようなものだとつくづく思える。

愛撫していて、いきなりつねると相手は怒る。
そうならないように会話はオフロードを走る様なものと考えれば、
コースから逸脱して脱輪することもない。
相手の会話は道路と考えて、
こちらは高級で滑らかなサスペンションで上手く対応し、合わせてあげること。

気をつけなければならないのは、
こちらが「話したい」と知らずのうちに思ってしまうことだ。
「話す」ということは、「自分の自然を出す」ということ。
つまり自分の本能がいつむき出しになるか分からないのだ。
言葉は裸で走り出す無防備状態の生き物と想像すれば、とても怖い。
その「言葉」は自分の意思とは違って解釈され、
時には自分そのものに攻撃が降りかかる。

だから、ふと出る言葉や、
自然体で相手に分かってもらおうと話し出す言葉には
自分ではコントロールできない感情が溢れ出る可能性があるから、
フォーマルな服を着させて、正しい姿勢をとらせる修練が必要だ。
それにはまずは聞き役に徹すること。
話す言葉が反射神経的にジャブのように間合いを取るために出さないようにして、
禅のような心持ちで会話ができるように精進する気持ちが必要かもしれない。

もちろん時にはタガを外して話しまくるのも良いかもしれない。
本当に心許せる、いや許してくれる友ならば。
しかし日常会話は8割程度はおとなしく聞く練習をする。
相手に対して、共感要求を知らずにしていたり、
いつの間にか敵対しない事を念頭において。

所詮独り

人に共感要求しないためにも、
「所詮一人」という事を心の底から知っておく事が肝要だろう。
つまり人にも自分にも期待しすぎない事。

全ての人は一人で生まれてきて、一人で死んでいく。
重ねていうが、「所詮は独り」なのだ。
これを心に留めること。
こんな事を言うと、身も蓋も無いと感じるが、
これが真実だ。

だから、他人も独り。
皆寂しいのだ。
その一人の寂しさから逃れたくて、
共感してもらいたいし、
孤独を忘れ、存在意義を求めるあまりに承認欲求が芽生える。

だから、「所詮一人」を心に留めておく事は、
他人から見ると魅力的に映るはずだ。

また、そんな「所詮一人」の自分を見つめるというのは、
宇宙の始まりから終わりを観察する様なもの。
これに気づけば一人も意外に面白い。